こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

中国で子供向けエンターテイメントコンテンツを提供する会社をやっています。

知りたくない、というのは逃げでしょうか。

頭の中の不要ファイル

インターネットを使うようになってから一番困ることは、知りたくないこと、知る必要が無かったこと、興味がないこと、それらの情報を目にする回数が格段に上がったことです。少しの隙間に大量の情報が入り込み、それらは何かしらの残痕を残していきます。パソコンのメンテナンスで「不要ファイルやレジストリの掃除」という言葉を見て、私の頭にもたくさん溜まっていると感じました。普段意識はしないし、何かの思いや考えを生み出すほど固まってはいないイメージや印象の破片。それらがかなりの容量を占領してきている気がします。

 

「世界」の範囲

世の中には日々たくさんの深刻な問題が起こっています。自分に直接関係が有る場所無い場所、友人知人がいる場所いない場所、行ったことがある場所ない場所、聞いたことがある場所無い場所、それぞれの出来事が同じように入ってきます。

昨日近所で極端に甘やかされている子供を目にして心が動いたことは、残痕としてまだ頭に残っています。自分の子供や親戚の子供、友人の子供の話ももちろん残ります。同じ様に街で見かけた物乞いの子供や日本の虐待の事件、アフリカでエボラ疑いの子供が殺されたりインドで少女が強姦されたとか、世界中の数限りない悲惨なことの情報がどれも並列に入って来ます。まともに一つ一つ向き合えば、どれも皆同じように切羽詰った助けを必要としていて、「今あなたがこうしている間にもまた、」と言われるまでもなく本当に苦しくなります。

 

遠い世界の大きな問題と、目の前の小さな問題

その他にもありとあらゆる情報が隙あらば凄い量で流れ込んできて、その一つ一つが問題提起をしてきます。でも、私が出来ることには限界がある。問題の重要性を知らされ、同時に自分には何も出来ないことを思い知り、無理やり目を瞑り自分の目の前にある問題と向かい合う、その繰り返しが1日に何回もある訳です。見ないフリをする癖は、目の前の出来事に対する反応まで鈍らせます。逆に敏感になっている時は、遠いニュースの一つ一つが心を刺してきて耐えられません。

当事者や関係者の気持ち、私がもし当事者ならどうするか?犯人の背景、彼は何を考えているか?私がこうしている間、遠いあの場所ではどんな時間が流れているのか?

それでも私は完全に役立たずの傍観者に過ぎないのです。そして私の目の前にはその1万分の1くらいの小さい問題が起こっており、それは世界では小さくても私に取っては大きく、また私以外に解決出来る人がいないので、他への気持ちをシャットアウトしてまたその小さい問題に取り組む必要があるのです。

 

一人が抱えられる世界の大きさ

一人の人間が接する世界はこの何十年かで数百倍も大きくなりました。ご近所や知り合いの話から、その地区、その県、県から地域、国、アジア、世界。でも、一人の人間が抱えて、消化出来る世界は同じように増えたのでしょうか?私に限って言えばそこまで変わっていないように感じ、だから必死で見ないフリ感じないフリをする癖がついたのだと思います。それでも少しでも心が動けば残痕が残り、その破片で容量が占領され、目の前の物事に心を動かす空間が減ってきているように感じるのです。

 「何も出来なくても知ることが重要」。私もそう思い、なるべく多くのことを知り体験しようと思って来ました。でもここ数年、自分の容量に限界があることを感じるようになりました。そして処理能力と容量の限界があるなら、それらを出来るだけ活かせる使い方をしたいと思っています。

「自分が何も出来ないことに捕らわれて、自分が出来ることが疎かになるくらいなら、知らない方がいい。」

遠い世界と目の前の世界に優先順位をつけるということ、しかし絶え間なく入ってくる情報はそれにも罪悪感を感じさせます。

 

入ってくる情報を選ぶことは出来ないのだから、「そこから如何に有用なものを選びだし活用するか」が必要なスキルだということはわかります。でも不必要な情報を効率よく切り捨てられない時、それに縛られてしまう時があります。

 

そんな時、目を閉じて耳を塞ぎ、「知りたくない。」ということは逃げでしょうか?

今この時も、あの砂漠とオレンジと黒と6つの目が頭から離れず、そこから目を逸らすべきなのか、傍観しているべきなのか、分からずにいます。