こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

中国で子供向けエンターテイメントコンテンツを提供する会社をやっています。

中国のこども、日本のこども

 

海外で子供を育てるということ。 - こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

 

前回海外での子育てに関する悩みを書いた中で、中国のマナーなど嫌だと思う部分を紹介していましたが、もちろんいいなと思うところもあるし、他にも日本との違いがあります。

私が考える中国の子供や子育て環境はこんな感じです。(中国は広いし多種多様なので、あくまでも私の個人的な感覚です。)

  1. 周りの大人がこどもに優しい
  2. こどもの反応がストレートで無邪気
  3. 親のこどもへの学力や習い事での要求が高い
  4. 比べる基準が多様で、違いに寛容

これらは子供だけではなくそのまま社会全体の違いに繋がります。そういう社会だからこういう子供になる、こういう子供だからこういう大人になるという風につながっているから当たり前ですね。そしてもちろんそれぞれに私が思うメリットデメリットはあります。

 

1、周りの大人がこどもに優しい

例えばバスや電車でこどもが泣いていても、睨まれることは殆どありません。近くのおばさんがあやしてくれたり、おじいさんがアメをくれたりもします。近所の幼稚園は朝から大きな音で体操の音楽を流して大騒ぎしていますが、周りにはおじいさんおばあさんが集まってニコニコ見ていたりします。もちろん自分の孫を見ている人もいるでしょうが、こどもが遊ぶ声に苦情を出すという社会的な雰囲気はまだ感じられません。

その代わり“優しすぎる”というのがデメリットでもあり、甘やかしと混同しているのも事実です。転んで泣いた息子が駄々をこねて起き上がらない時、私は自分で立ち上がるまで手を貸さないのですが、必ず近くのおばあちゃん達に注意されます。人が集まる場所で騒いだり迷惑掛ける子供にもとても甘いです。子供なんだからしょうがないで何でも通ってしまうところがあります。“人に優しく自分にも甘い”というのは大人も同じです。

 

2、こどもの反応がストレートで無邪気

私は中国でエアドームのプラネタリウムのイベントをしています。以前日本でも同様のイベントに5歳甥っ子を連れて参加したことがあるのですが、他の子も皆きちんと座り、放映が始まったら小声で聞きたいことだけ聞いておとなしく見ていました。

こちらでプラネタリウムを始めるにあたり、大気汚染で星が見えない子供達に満天の星空で驚いてもらおうと、夕暮れの空から日が沈み夜になり、まずは1等星だけ表示して「普段見えているのはこんな星空かな?でも空には本当はどのくらい星があるか知ってる?」と言う台詞の後に全ての星を表示する演出を考えていました。それが実際始めてみると、夜になっただけで大歓声、満点の星空になったら飛び跳ねていました。月にズームインしてみたら、大きく迫ってくる月をジャンプしてつかもうとしたり大騒ぎで、たかだか直径5mのドームなのに用意したスピーカーでは全く役に立ちませんでした。確かにお行儀は悪い、悪すぎます。でも、その反応は凄く素直で一緒に笑ってしまいました。こんな大興奮のプラネタリウムなんて経験したことが無かったけど、静かに見るだけじゃない楽しみ方もあるということを教えてもらいました。

 

日本で子供向けワークショップをしている方にこの話をしたら、「日本では感情を出す練習」のワークショップもしているそうです。無邪気な子と我慢する子。良い悪いではなくどちらもかわいいし、その違いが面白いと思います。

 

3、親のこどもへの学力や習い事での要求が高く、生活能力への要求は低い

日本でも子供に期待しない親はいないと思いますが、中国ではまた少し違う熱があります。学力と経済力がそのままその子の将来に反映することがはっきりしているので、希望というよりは必死です。“その子の良いところを伸ばしてあげよう”というのではなく、“役に立つタイトルをつけてあげたい”というものです。お絵かき教室も音楽教室も、パンフレットに“○○コンクール金賞入賞者5名!”などと具体的な実績が書いてあることが多く、幼児の親でも就職に役立つ資格を探す人達と同じ姿勢を感じます。

その代わり、着替えや後片付けのような生活に関するものは後回しにされています。またプラネタリウムの話ですが、幼稚園児に「丸い輪っかがついてる星はなーに?」とその星を映すと何人もの子が「土星」と答えて驚きました。それでも、エアドームから出る時は「お母さん、くつー」と言って靴やコートを着させてもらっているのです。

 

4、比べる基準が多様で、違いに寛容

中国は国土も広く人口も多く、多民族で格差社会です。出身地によって言葉も食べ物も顔付きも違い、同じ土地でも職業や経済力などによって全く境遇は異なります。そんな人たちが集まっている中国の都心部では、お互いの共通点を見つける方が難しく、“違う”ということが当たり前です。同じ様な条件のグループ内では当然比べあったりもしますが、皆違うことに慣れています。これは外国人としては大分助かりました。例えば私の中国語の発音は未だにいい加減ですが生活上対して気になりません。(本当は気にして直さなければならないんでしょうけれど。)私よりももっと下手な中国人もたくさんいるし、発音悪いと言われたり上手いと言われたり、東北出身かと聞かれたり台湾人かと聞かれたり。要は判断する側もバラバラだから評価もバラバラなんですね。外国人として特別扱いされる訳じゃなくその他大勢として放って置かれる気楽さ。例え思いやりや気遣いであっても特別扱いが続くと疲れるものです。

 似た者同士が暮らす中で培われた細やかな気遣いと、異なる者同士が暮らす中で生まれた寛容さ。文化というのはこういった物理的背景によってかなり影響を受けているのだと実感します。

 

どちらが良い悪いはなく、またどちらか一方だけを選ぶことが出来ないのはわかっています。今後ハーフであることやこの環境で嫌な思いをすることも有るかも知れない。でもまだまだ欲張りな私は、せっかくこういう環境にいるのだから息子には“良いとこ取り”をして、人にどうぞが出来るけど嫌なことをされたら「やめて」とはっきり言える子、マナーは守れるけど大きな声で笑う子になって欲しいと思っています。