「迷惑」の呪縛から逃れる“差不多”のすすめ。
子供を連れて日本に帰ると、新鮮に見えることがたくさんあります。
電車に乗る時に子供が迷惑を掛けないかとても緊張すること、それでも白い目で見られてしまうこと、道路工事しているでこぼこ道でベビーカーを押していたら小学生が手伝ってくれたこと、バリアフリーの施設がとても多いこと、トイレがとてもきれいなこと、子供向け施設でもとても静かなこと、公園に人がいないこと、街が静かなこと、たくさんのサービスが長期間住んでいる日本人だけが対象になっていてそれ以外のパターンが想定されていないこと、殺菌にものすごく注意を払っていること、店や公共のサービスでは中国よりも100倍子供に優しいのに子供に話しかける大人は殆どいないこと、ハイテクとアナログのギャップが激しいことなどなど。
私の目線はあくまでも中国やその他アジアの国に慣れた個人的なものなのであしからず。また同じように中国にいても客観的に見る癖がついています。もう私はどちらの国にいても半分は外国人という立場になっているのかも知れません。
皆が自分勝手でマナーがないことによって無駄な摩擦が起こりイライラしている中国にいると、“皆が気分良く暮らす為に、お互い少しずつ気を使うマナーというものが、如何に合理的なシステムか”と気付かされます。中国にはほんの少しの気遣いや我慢で解決出来る問題が、つもり積もって大問題になっていることがたくさんあるからです。それに比べると、日本は皆自覚を持ちマナー良く暮らすかなり完成形に近い社会に見えるのですが、果たして皆“気分良く”暮らしているでしょうか。逆にそのマナーに縛られてマナーの監視に怯えている面が見えたりもします。日本での“迷惑”と言う言葉の絶対的支配力に怖くなる時があります。
日本で電車に乗ったとき、すれ違った電車に驚いて「ぶつかる!ぶつかる!」と身を屈めて叫んだ息子に、思わず「静かにね」と注意してから少し悲しくなりました。
こういう誰かの驚きや喜びも、誰かの迷惑になるということ。“迷惑”を掛けない為にはあまり驚かず、あまり喜ばず、あまり怒らず、静かに静かに暮らすという生活。他人への迷惑を忘れてしまうほど驚いたり喜んだり怒ったりするから思わず声が出ちゃうんだけど、それを押さえ込む訓練をするように暮らす生活。それどころか、目線の行き場や手の置き所、咳払いにさえ気を配る生活。
私がここで、「子供のちょっとした行動や声くらいは多めに見て欲しい。」と書けば、「仕事で疲れて寝ている人の迷惑になる。」「騒音がストレスになる人がいる。」などなど、熱い議論が巻き起こるのでしょうか。迷惑は絶対的な悪で、誰に取っても公平なルールとは何か徹底的に追求していくという姿勢。これこそが、秩序ある社会を保つ根源なのかもしれません。でも。。。
でも、誰にも少しの迷惑も掛けずに生きていくことは可能なのでしょうか?
誰にとっても公平なルールなんて存在するのでしょうか?
絶対に迷惑を掛けない方法や公平なルールを追求すればするほど、ルールを補足するルールが増えるだけで答えが出ない袋小路に追い込まれる気がします。物事の本質を見失いように、細かい矛盾はほどほどのところで諦めるゆるさもまた必要なのではないかと思います。
今思うと、日本に居た頃に感じていた重苦しい空気は、生活している中で押し殺した元はと言えば他愛のない小さな感情が腐って発生したガスのようなものだった気がします。それらは行き場を失い、時間が経つともっとネバネバとした嫌な感情となり、愚痴となって出ていこうとする。そしてやがて自分と同じ努力をしていない人に矛先が向かいだすのです。いつかどこかで大爆発を起こすくらいなら、すぐその場で発散した方が健全という気がします。
足を踏まれて痛かったら「いたっ!」と自然に声が出て、踏んでしまった方が「すみません。」と言う。そう言われてみれば電車が揺れたのだから仕方が無いなと思って「いえいえ」と答える。ただそれだけのこと。「痛いの我慢したのにあの人謝りもしなかった!!!」とか、「わざとじゃないのに睨まれた!」とモヤモヤするよりはよっぽど簡単で風通しがいい気がするのです。
中国で良く使われる言葉に「差不多」というものがあります。「だいたい」や「そろそろ」というような意味ですが、本当にしょっちゅう登場します。「だいたい同じくらい」「だいたい10個くらい」といった数に対する“だいたい”や、「もうそろそろ帰ろうか」とか「そのくらいでいいよ」といった程度に対する“だいたい”など使い道はとても幅広いです。中国で仕事をするとこの言葉に困らされることも多いのですが、日本には是非おススメしたい言葉です。
「電車でゴミを散らかしながら何かを食べるのは迷惑だから飲食禁止にするべき」というメッセージから
「無味無臭の水はどうなる?ジュースは?喉が渇いたら電車を降りて水を飲むのか?」
「アメやガムはどうなるのか?」
「どうやってチェックするのか?しないとバレた人だけ不公平だ。」
「風邪や病気で仕方がない人だっている。」
「じゃあ病気とそうでない人をどうやって区別するのか?」
このパターンでどんどんエスカレートしそうな時、途中で「ま、キリがないからあとはケースバイケースで。」とストップを掛けること。白と黒の間にちょっとグレーがあったってしょうがないとやり過ごす。これがおススメしたい“差不多”の精神です。細かいことはとりあえず置いておいて、問題の本質だけ考えるということ。そもそもは、「お互いに不快な思いをしないように」というのが目的だった訳で、いつしかルールの絶対遂行が目的となりそれを守る為に疲れたりイライラするのは本末転倒だと思い出すこと。
全ての人に同じマナーやルールを求めるのではなく、突出した問題だけを解決していけば大分楽になるんじゃないかと思います。
私は驚いたり怒ったら大きな声になってしまうし、機嫌がいい時は鼻歌くらい歌いたい。人間って大人になったって、そんなものじゃないですかね?