こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

中国で子供向けエンターテイメントコンテンツを提供する会社をやっています。

空っぽな目

3年前まで、こどもが嫌いでした。仕事以外の事に興味も考える時間もなく、仕事の邪魔になるものは全て苦手で嫌いでした。
こどもに関する悲惨なニュースを見ても、「世界の全員が幸せでいる事なんて無理なのだからしょうがない。」としか思えませんでした。
妊娠したと知った時、初めに思ったことは「参ったなー」でした。その後どうして親になる選択をしたのかはまた別の機会にしますが、選択した後も自分の中では「生まれてくる子をかわいいと思えるのか?」と本気で心配していました。

 

そんな「お母さん」とは程遠かった私が、こどもの顔を見てから変わってしまいました。あれだけ心配していたのにあっさりこどもが愛おしくて堪らなくなりました。自分のこどもがというよりは、何も無い所から勝手に一つの生き物として誕生してくるという現象そのものや、その後すごいスピードでハード自体を成長させつつソフトもバージョンアップを繰り返し機能が追加されていくというシステムの神秘に「畏敬の念」の様なものを感じました。そして私はとても弱くなりました。

 

そもそも結婚するつもりもなく超現実主義で好きなように生きてきた私は、本気でいつ死んだって構わないと思っていたのですが、今では死ぬのが怖くて仕方がありません。そして、更に本気でこんなことを思うようになりました。

「世界中の全てのこどもに笑っていてほしい。」


こんなこと、3年前までの私にとって一番嫌いな言葉でした。鳥肌を立てて「気持ち悪い」と吐き捨てて終わりだったはずです。でも、本能なのか、ホルモンなのか、遺伝子なのか、例のシステムの仕業なのかは分かりませんが、心からそう思う自分がいます。

こどもに関する悲惨なニュースは一切見る事が出来なくなりました。トピックなどで虐待のニュースの内容を目にしてしまうと何日も立ち直れなくなる時があります。

 

今日、北京の地下鉄の中でこどもを抱えた乞食を見ました。私より若い女性が1歳半くらいのこどもを抱えてお金を恵んでもらっていました。

 

中国には地下鉄だけじゃなく繁華街でもよく目にする光景で、ビジネスとして乞食をしている人や、乞食を取り仕切っている組織やそこで利用されるこどものとても悲惨な状況も度々ニュースになります。3年前までの私は、その背景や社会現象に興味はあったものの、各個人には何の関心もありませんでした。「全員が幸せでいる事なんて無理」なのだからしょうがない。

 

今日私はそのこどもと目が合いました。それだけで、もう駄目でした。
「ああ、この子は分かっている。」と思いました。

こどもの目や表情は、いつも忙しくいろんな気持ちを発信してくれるのに、今日目があったその子の目は、何も伝えていませんでした。何も無い空っぽの表情。
「ああ、駄目だ。バレている。分かっている。」私は居たたまれない、その子に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいでした。
この世界があなたに優しくないこと、いい人ばかりではないこと、間違っていてもしょうがないことがあること、全部バレていると思いました。
私の子はまだ知らないかもしれない事、この子は全部分かっていると思いました。

 

それはもう心臓を掴まれているようで、社会情勢がどうだとか、中国の法整備がとか、人権意識がとかの理屈では応急処置にもならず、私は必死で彼らの為にはどうしたらいいのかと考えました。それは彼らに対する思いやりというよりは心臓発作を止める薬を必死で探すような、自分が楽になりたいという自己中心さで。

考えてすぐ、乞食の女性を呼び止めて今いくらあったらこんな事をしなくて済むのかと聞いてそのお金を渡したい衝動にかられました。とりあえずうちに連れて帰るか?でも私には彼女を一時的に止める事が出来たとしても一生養うことは出来ず、それは何より乞食という方法が有効だという証拠になってしまうしその他のこどもは救えない。もし私がものすごいお金を持ってたくさんのこどもを養ったとしても、限界があるし、お金をあげるだけでは解決出来ないこともある。じゃあどうすればいいのか

こどもの悲しいニュースを知った時もいつもこうなって、苦しく、ぐるぐるといろんな事を考え、そして最後には、「今の私に出来るのは、まずは自分のこどもに笑っていてもらうことだけだ。」と思うのです。こどもの笑顔は、意地やイライラをふっと吹き飛ばすパワーがあります。そうやってこどもの笑顔が周りに笑顔を伝染させることが出来れば、その人は一瞬でも幸せな気持ちになるかもしれない。そして誰かに優しくするかもしれない。「自分のこどもをその出発点をすることしか出来ない。」そう思い、こどもを抱っこして私も彼のパワーをもらうのです。

 

今日のあの子も、どこかで寂しい思いをしている子も、辛くて怖い思いをしている子も、いつか、笑えますように。

何の意味もない、自己満足な偽善。分かってはいるけど、そう思わずにはいられない。


一番安っぽい偽善だと思っていたこんなことを本気で思うようになった、これもこどもの笑顔のパワーだと思うのです。その笑顔が一つでも多く作れるように、頑張って行きたいと思います。