こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

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表現の自由という幻の贅沢品。

パリのテロ事件以来、表現の自由と言うテーマが飛び交い議論されています。「表現の自由は絶対で暴力に屈してはならない。」「自業自得」など様々な意見で議論される中、私は何かピンと来ない感じでこの何日かニュースを見ていました。

フランスの「涜神の権利」という文化背景なども知ることが出来ましたが、やはりモヤモヤした感じが消えませんでした。

2006-02-09 - fenestrae

 

何に違和感を感じているのか、ぼんやりながらやっと見えて来たので書いてみようと思います。

 

「表現の自由=誰でもどんな内容でも何時如何なる場合でも公平に守られるべき世界的な権利なのか?」

今までの歴史で言う表現の自由というのは「個人対国家(権力)」の構図だったように感じます。無力な個人対大きな権力。だから無力な個人は絶対に守られるべきでした。ただ、今回の問題も対政府ではなく、「文化(宗教)対文化(宗教)」になっており、だからこそ多くの意見が現状とそぐわない気持ち悪さを感じたのだと思います。

「表現の自由」を守れ 風刺画のネット投稿相次ぐ フランス風刺週刊誌銃撃事件で

 

私は日本を出て生活するようになって、全てに共通するルールや常識なんて存在しないと言うことを痛感して来ました。自分の個性だと思っていたものが、実は文化背景や環境に大きく影響を受けていたということも実感しました。便宜上同じ単語で翻訳されるものであっても、実際の意味や重要性は全く異なるものもたくさんあるという事も知りました。

だからこの「人権」や「表現の自由」という言葉が国を超えた人類のルールのような形で叫ばれる時、少しお尻がモゾモゾする感覚になるのだと思います。

 

「表現の自由は絶対だ。暴力には絶対に屈しない。」

でも「ペンの暴力」と言う言葉もあり、「ペンは銃よりも強し」というのも逆にそのとおりで、殺されるよりも言葉の侮辱の方が耐えがたいという人がいるかも知れません。

「誰にでも表現の自由がある。」

でも食べることに困っている人や読み書きが出来ない人や危険な状況で暮らしている人、又はとても偏った意見を持っている人など条件が整わなかったり少数派な場合はかなり制限されてしまうはずです。

「人を傷つけない範囲で表現の自由が保障されるべき。」

どんな言葉が人をどのくらい傷つけるか、これはその文化背景や価値観、個人の性格にも関係してくる非常に複雑なテーマで、世界規模で明確なルールを決めることは不可能だと思います。

「やり過ぎた表現の自由が反発を受けるのは仕方が無いが、暴力やましてや殺人は絶対にいけない。」

命が一番大事というのも、数ある考え方の中の一つなだけなのかもしれません。実際いろいろな理由での戦争が今も続いているし、何かを訴えようとして自殺や殺人をすることも少なくないはずです。ある人は“死ぬよりも耐え難い侮辱を受けたから殺す”と言い、ある人は“表現で侮辱を受けたのなら表現で返すべきで殺してならない”と言う。これは意見の違いというより異なる優先順位に於けるルールの違いであって、議論になっていないと思うのです。

 

衣食住が足りて安全な生活を確保できたグループから一歩上の人権を手にしていき、やがて世界の常識を作っていく訳で、その一部の人々の常識がが全く通用しない場所や人々だっているのは仕方の無いことだと思います。

国際連合食糧農業機関(FAO)日本事務所: 世界の飢餓人口は減少、しかし未だ8億500万人が慢性的に栄養不足

UNHCR Japan - 基本情報 - 数字で見る難民情勢

「表現の自由」を手にする事が出来ない人がいる以上、「表現の自由」は国や文化を超えて絶対に守られるものではない。

殆どが国や民族のグループごとに暮らしていた今までの世界では、それぞれの文化背景に合わせてルールを設定しそれに従って判断していればよかったのが、今ではどのグループも急激に混ざり始めています。「国」という枠組みも混ざり合って地名以外の意味をつけるのは益々難しくなっていくはずだと思います。そんな中で、全員が納得するルールを設定するなんて不可能です。今の人類で「表現の自由」という権利を享受している人が何人いるのか?私は完全平等主義者ではありませんが、全ての人に平等な権利が無い以上、完全な自由という権利だって存在しないと思うのです。

 

中国に来たばかりの頃、仕事や生活に於ける人々の格差の大きさに驚き、知り合った中国人弁護士に「人権についてどう思うか」聞いてみたことがあります。「全員に平等な人権というのは在り得ない。」と彼ははっきり言いました。私は弁護士からそういう台詞が出たことに少なからずショックを受けて理由を聞きました。「もし中国人全員が日本人と同じ権利を持ち同じような生活をしたら地球はすぐに崩壊するよ。」と彼は笑いました。「人権っていうのは一つのレベルではなくていろいろな段階がある。日本の人権の内容だって時代によって変化して来ているはずで、その場所や時代で変化していく一つの物差しに過ぎない。」

平等を否定するなんてひどい!そんな気持ちで彼に理由を聞いた自分が、世間知らずで恥ずかしくなりました。日本と言うひとつの国の中での常識とルール、それは隣の国でも全く通用しない場合があると言う想像力が私にはありませんでした。

 

じゃあ、どうするのか。

今の私達はもう自分の常識だけでは生きていけない。自分とは違う常識やルールを持った人と接して生きていくしかないのです。

だから、各自が状況を考慮しつつリスクを想像し、表現の方法を自分で選択するしかないと思っています。この位のことを言ったら殴られるかも知れない、或いは身に危険が及ぶかもしれない、そういう覚悟を持った上で発言していくしかないのが事実だと思うのです。

 

決して今回のテロを支持しているのではありません。

私は「暴力は絶対にいけない。」「暴力は何も解決しない。」と思っていますが、同時にこの考えが全ての人に理解され支持されるわけではないとも思っています。

法は守られるべきで、フランスで起きた以上フランスの法に則って犯人は一刻も早く逮捕され罰に処されるべきだと強く思っていますが、同時にだからと言って法を犯してでも殺したいと言う人がいなくなる訳ではないとも思っています。

 

無理だからと言って、表現の自由を願うなと言っているわけではないのです。

ただ、表現の自由というのが人類全ての希望ではなく、それもまたある恵まれたグループの意見の一つに過ぎないと言いたくなっただけです。

こんな内容のブログを公開し出来るということ。これが如何に恵まれた特殊な状況であるか感謝しつつ、そしてこれから続くことが当たり前ではないということを忘れないようにしたいと思っています。