こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

中国で子供向けエンターテイメントコンテンツを提供する会社をやっています。

私達は縛られたい。

昨日暇や無駄について書いた後、ニュースで自由という言葉を何度も目にして、またいろいろ思い始めたので、続きです。

 

2015年の私達は昔より大分解放されている。

無駄な手間や時間から解放された。

重い荷物から解放された。

ある場所に行かないと見えなかったもの、使えなかったものを私達は持ち出し、場所や距離の制限から解放された。

言葉の違いからコミュニティーを制限されることからも解放された。

やったー!解放だ!人類は自由を手に入れたー!

 

で、どうなった?

私達は今、自由を謳歌出来ているだろうか?

 

雑誌を買い、作品を選び、映画館を選び、時間を調べてわざわざ見に行く映画。

何度も下書きしてから清書する手紙。

現れない人をどきどきしながら待つ気持ち。

初めての場所で地図を見て人に聞いてやっと辿りつく目的地。

今見ないともう二度と見られないという意気込みで見るテレビ番組。

 

今携帯で同じ映画を見ても、同じ文面をメールで見ても、連絡を取り合いつつ待ち合わせても、携帯片手に目的地に辿り着いても、録画してテレビ番組を見ても、もうあの感じは戻ってこない。そして私達は慌ててまた検索する。自分に面倒なことをさせるくらい、自分を縛ってくれる何かを。

 

望んでいた自由を手に入れて、少しずつ気づいてしまった。

自由は鳩や女神なんかじゃないかも知れないということ。

私達はやっぱり縛られたい。

完全な自由に立ち向かい続けるには、物凄い覚悟が必要だ。

 時間はね、こうやって、大きい時計に入れて柱に掛けておくのが一番いいんだよ。みんなで同じ時計を持つことが出来るからしあわせなんだよ。腕時計なんかに入れて、時計を外に持ち出そうなんてとんでもない考えだ。

ー寺山修司「田園に死す」よりー

中二病でサブカル少女だった私は、彼の作品によく出てくるこの柱時計や母というモチーフに自分が息ぐるしく感じていた全てのものを投影し、そこから自由になる為に挑戦していく側としてこの文章に強烈に打たれました。私は腕時計すら要らないんだ!と。そういう面倒な思春期を何とか通りすぎても、やっぱり縛られたくないという気持ちが強く、こどもや結婚や家そういうものは全て要らない、人に煩わされたくないから私も人に頼らない、と思ってやってきました。でも今、この母親の言うことが少しは分かるような気がします。。

 

縛られていたからこそ、抜け出したいというエネルギーが沸いたのかも知れない。

お互い縛りあい煩わされながら初めて家族という実感が沸いてくるのかも知れない。

面倒な過程に縛られながらそれでもやる事で、自分がそれをそこまで大切に思っているということを自覚するのかも知れない。

ということは人は縛られていないと、自分の存在を自覚出来ないんじゃないか?と思うのです。

 

限りなく自由を求める人類の闘争。

私はここで一抜けします。私には自由は無理でした。

これ以上の自由なんて要らない。

自分が愛するいろんなものに煩わされていたい。

 

そしていつか私もこどもにウザイと言われる母親になって、こどもを家から追い出してやろうと思っています。