こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

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ペン対銃

パリの事件についてもう何回か書いているのに、それでもニュースを見れば見るほど違和感が募るばかりです。

たくさんのペンが銃を持ったテロリストに向かっている絵。
暴力に表現の自由は負けないというメッセージだというが、不完全だ。

私はこの絵の前にあったはずのもう一枚の絵を思う。

ペンが多くの人の心臓を刺している絵。

 

もはやペンは面と向かって一人ずつしか殺す事が出来ない銃よりも、よっぽど高性能な武器にもなり得る。そしてその武器は誰もが持っている訳ではない。それなのに自由と共に語られる時のペンは、未だにか弱い一本の万年筆の顔をしている。
「ペンは銃よりも強し」なんて今では何の皮肉でもメッセージでもなく、当たり前過ぎて脅迫しているようだ。

 

銃と銃が争ったらそれは戦争だが、ペンとペンとの争いはただの論争と呼ばれ、
ペンを持てる側がペンで攻撃しペンを持てなかった側が銃で反撃したらそれは暴力になり、ペンを持てなかった側にペンで攻撃すれば暴力に対抗する英雄になる。

 

自由は権力に対してしか掲げられない言葉なんじゃないだろうか?

今回の運動は香港のものとは、全く意味が異なっている。

あの内容の雑誌を出版出来る自由があったからこそ、今回の事件が起きた。

国家があなたの身を守る為に内容によっては出版を許可しない言った時、「どんな代償をも厭わないから自由をくれ」というのが、自由を求める運動なのではないか?

どれだけ誰かを傷つける内容であっても自由に表現する事ができ、死よりも尊厳を重要視する者がこれもまた自由に銃を持ち報復する。究極の自由というものを求めるなら、これこそがそうなんじゃないのか?

「何を言ってもいいし、何をしてもいい。」

 

 

「私はシャルリ」と言うメッセージは、私には「内容に関わらず自由に表現したいがそれに伴う代償は断固として受け入れない!」と聞こえる。

暴力ではなく同じ表現の場で対抗するべきだというのが正論なのだが、この「同じ表現の場」なんてまだ幻想でしかないのではないだろうか?

彼らはどこで「表現」すべきだったのか?Facebook やtwitterで相手のアカウントを見つけて討論すべきだったのか?自分のでフォロアーを増やしてから呟けば良かったのか?雑誌社の前でデモ行進をすべきだったのか?新聞社に反対意見を投稿すべきだったのか?同じようにキリストをコケにした絵を描いて冗談と笑えばよかったのか?どこでなら、どんな方法でなら自分を傷つけた相手と面と向かって戦うことが出来たのだろうか?それが分からないので、私は手放しで彼らを糾弾することが出来ないでいる。

素敵なジョークの皮さえ被っていればそれは“皮肉な風刺”となり、その技術がなくストレートに叫んでしまうとそれはヘイトスピーチや暴言となり、叫ぶ場すら見つからず行動してしまうと暴力になる。このルールだって、一部のグループが決めただけのはずだ。

「銃はペンよりも強し」今やこの言葉の方が、弱者を勇気づける言葉になってしまっているのではないか?

 

私はテロや暴力を肯定しているのではないし、自由をバカにしているのではない。

ただ私は暴力を体の傷だけに定義することは出来ないと思うし、一度「もっと自由を」と叫べばそこは全ての例外や制限を外される恐ろしい世界になると思っているので、私には叫ぶ勇気がない。

自分だけが有利な場所で守られつつ自由を叫んだり、自分以外のものには制限を求めることを「自由を求める戦い」のように表されることにすごく違和感を感じているのだ。

 

【主張】仏紙銃撃テロ 表現の自由は揺るがない - 産経ニュース

信教に関わる問題では、侮辱的な挑発を避ける賢明さも必要だろう。だが、漫画を含めた風刺は、欧州が培ってきた表現の自由の重要な分野である。

 テロの恐怖に屈し、自己規制してしまってはテロリストの思うつぼだ。

ー産経ニュース「主張 仏紙銃撃テロ表現の自由は揺るがない」ー

 

風刺は文化である、守られなければならない。

信仰は文化である、守られなければならない。

「自由」という言葉だけで、この二つが同じように成立するわけがない。

どちらを支持するのも、また全く別の意見を言うのも、無視するのもまた自由なのだから。

 

「自分がやられて嫌なことはするな。」

これが自由を制限する言葉と思うなら、

「何をされても文句を言うな」

と説教されるだけだと思うのだが。

本当に「私はシャルリ」でいいの? 西洋とイスラムの「対立」をあおることにならないか : 木村正人のロンドンでつぶやいたろう

「表現の自由」の終焉? - 擬似環境の向こう側