こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

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移民問題、同化政策。理想と現実と覚悟と。

産経新聞の曽野綾子氏のコラムに関して、連日ニュースで大騒ぎになっています。コラムを見て、私も海外に住む身としていろいろ思うことがありました。しかし、大騒ぎになった反応への違和感などもあり、上手く考えがまとまらずにいたところ、この方の記事を見てすっきりすることが出来ました。


私がモヤモヤと考えていたことがそれより遥かに理論的に書かれているので、そのままこちらを読んで頂ければ十分なのですが、ついつい余計な感想を言いたくなってしまったので、以下お暇な方だけお付き合い下さい。

 

私がこのコラムを読んでまず思ったのは、大方世間の反応と同じです。“今時、知識人という立場の人が公の場でこんな発言をし、またそれをそのまま載せてしまう新聞への驚き”です。でも、公の場で発表するに相応しくないと分かっていても、実際本心はこれに近い考えの日本人は多いのではないかと思っていたので、その後の批判の嵐が少し意外に感じられたのです。海外から批判されるのは当然としても、日本国内の批判の声は以下のどちらが多かったのでしょうか?

1、“アパルトヘイト”や“黒人は大家族主義”などと言った短絡的な例えや、“居住区を分けるべき”という微妙な問題に対して説明やフォローがない無防備過ぎる表現が問題。

2、彼女の考え自体が問題。

 

私は普段目にするニュースや周りで聞く話から、てっきり日本人は外国人と生活を分けたがっているのだと思っていました。テレビを見れば、外国人タレントが話す日本語や日本人ぽくない外見がいじられていたり、「町で会ったちょっとした変わり者」のような話で共感を得ながら笑うというパターンが多いし、「好きだったこの店〔この辺り〕も最近は中国人ばかりだ。」というため息交じりの意見も良く耳にします。日本人としての私はどれも共感出来るので、それを批判している訳ではありません。

 

でも、中国で外国人として暮らしている立場として見た時は違和感を感じます。中国に12年も住みながら、複雑な中国語の発音を「伝わるからいいや」諦めている私に取って、もはや定番ギャグ化してきている「アグネス・チャンさんの日本語」のレベルには尊敬と感心しかありません。仕事仲間や友達、自分の家族はもちろんクライアントまで、周りの中国人も私のヘタな発音にそこまで感心が無さそうです。また日本でいう「変わり者」の基準は服のセンスだったり、ちょっとした動作や受け答えの反応や、清潔の度合いなど些細な事過ぎて、「そのくらいの違いにイライラしたり驚いたりしているなら、外国人と接するのは余程疲れるだろうな」と思います。また、「好きだった店に中国人が増えた」というのは、店主が日本人の常連だけでやっていけるのであればその声を重視し中国人団体客を受け入れなければいいのに、受け入れているということはその価格帯を受け入れる層が中国人になったというただの経済状況の一例であり、客として嫌ならまた店を変えればいいだけの話。そこをセンチメンタルに語る様子はまさに“日本人だけで楽しみたい”という気持ちからくるものだと思います。*1

 

また移民問題を語る時に時々出てくる、「移民に出来るだけ日本に馴染んでもらう」といった“同化”を求める意見に対してもまた、半外国人化している私から見ると、求める“同化”のレベルが高すぎて絶対に無理だと思うのです。日本に10年住んで仕事もしていましたという中国人に対しても、そこに考え方の違いを見つけては「やっぱり中国人なんだな」とごく当たり前の感想が出てしまう訳で、仕事を求めて移民してくる人に対して現実的に求められるレベルでは、到底日本人を満足させることは出来ないと思います。

 

これを差別と捉えるか文化と捉えるかは別として、日本人の国民性の特徴の一つであることは間違いないのではないでしょうか?

では、日本人が思っている“日本人”とは何なのでしょうか?

恐らく国籍の問題では無いと思います。キリスト教やイスラム教のようなはっきりとした信仰とも無縁な日本人は、何をもって相手を“日本人”だと認めるのでしょうか?

 

(染めて茶髪だとしても元は)黒髪で、(カラコンを入れていたとしても元は)黒い瞳で、会釈をしたら会釈で返すことが出来る人。英語の発音が苦手で、“空気”を読める人。いつどんな曲が好きだったか、どんな番組を見ていたか、先生に何を言われたとか親にどんな説教されたかなどの話で共感出来る人。毎日シャワーに入ったり、毎日服を着替えたりマスクをしたりという同じ清潔の概念がある人。納豆や塩辛やタラコや梅干、日本酒や焼酎や日本茶でほっとするよねという人。もしこれらを外れていても、「自分は外れている変わり者」という自覚を多少は持っている人。

 

こんな感じでしょうか?例えば私の息子は日中ハーフですが日本人の国籍を持っています。もし日本で暮らさぬまま成人を迎えたら、日本語は出来てもこの条件は満たすことが出来ないと思いますが、彼は日本で日本人と認められるのでしょうか?悲観している訳ではなく客観的に考えて、日本に住まずに“空気を読む”技術は身につかないので、「見かけと言葉で日本人と思ったら全然違うじゃないか。」「まぁあいつは日本で育ってないから。」というような反応を受けるだろうなと思います。*2

逆に、日本ではよく問題に上がることですが、日本国籍は持っていないけれど生まれた時から日本育ちという人達はどうでしょう?、戸籍ではなく感覚ではどちらを日本人と思うのでしょうか?

 

世界はますます自由に人が行き来するようになり、今後私の息子のような人が増えていった時、日本人である私達はいつまでこのおぼろげな“日本人像”を守っていけるでしょうか?

 

もしどうしてもこの日本人像を守りたいなら、少子化高齢化社会を受け入れるしかありません。2050年には1億人を割ってしまい2100年には約5千万人にまでなるという社会で、今と同じ社会システムやサービスを継続していくのは不可能で、徐々に全てを縮小していく他ありません。移民が嫌というのは、同時にこれを受け入れる覚悟があるという事でなければなりません。

 

また、移民を受け入れるなら、もう今ある“日本人像”は幻となり、新しいいろいろな“違う”人との暮らしを受け入れるしかありません。「普通こういう時はこうするでしょ。」「全部言わなくても分かるよね。」「悪くはないけどさ…。」のような“普通”や“目の合図”や“あうん”や“言葉の裏読み”を求めることは難しくなり、何でも誰にでも分かるように明文化し規則化してはっきり伝えていかなければいけなくなることでしょう。お隣からカレーのスパイスの匂いがしたり、部屋を貸したら油汚れが凄かったり、ワンルームに5,6人住んでいたりするかも知れません。旧正月になれば爆竹が鳴り、職場のスタッフのラマダーンの時期を配慮したりすることになるかも知れません。それが苦手で避ける人が多い場合は、自然と曽野綾子氏の提案のような居住区を分けるということになるのではないでしょうか?

 

因みに、中国でも北京や上海には日本人が多くする地区が存在します。特に上海には8万人以上の日本人がおり、日本人が多く住む地区に住み日本企業で働く人達やその家族には、殆ど中国語が分からないまま生活している人もたくさんいます。同じく全く中国語を話せない英語圏の人たちもたくさんいます。彼らに対して「中国に住んでいるのだから出来るだけ中国に同化すべき」と思いますか?駐在で来ている大企業の人たちは移民ではなく出張、所謂出稼ぎのような単純労働者だけが移民であり、同化すべきでしょうか?駐在でもなく中国に12年住んでいる私は移民でしょうか?

 

移民問題を語る時、今まで体験したことのないこれからの社会で起こり得る様々な問題を想像する力が無いと、ただの綺麗ごとで終わってしまうと思っています。日本人同士でもちょっとしたことでマイノリティとなり、そうなった時の生きにくさが問題にもなる中、私達は“違い”を受け入れていく覚悟があるのかどうか?どうやって受け入れるのか?

 

半外国人の無責任な立場の私は、日本は今のシステムを保持出来る限界まで移民を拒み、もう駄目だとなった時に国民投票をして受け入れるかどうかを決めたらいいと思っています。そうでないと、私も含めて何時までもセンチメンタルな“日本人像”を捨てる決心がつかないと思うからです。

 

*1:余談ですが、めちゃイケの“期末テスト”のような企画は私も毎回大笑いするのですが、あれで笑えるのは日本の教育の水準がものすごく統一されているからです。日本全国の殆どの人が、“あるある”と共感出来るということは、教室などのハード面、授業内容はもちろんそれ以外のマナーや道徳の内容(手を挙げて発言しようなど)までもが統一されているということです。それは決して当たり前のことではありません。

*2:私が今まで中国で日本人と仕事をした時に感じたのは、日本人対応をする中国人は日本語が片言の方がいいという事です。ヘタに日本語が上手だと、日本の文化や習慣を分かっているのだろうと高い期待をされてしまい結果「期待したのに全然分かってない!」と失望されるのですが、片言だと初めから外国人だからと初めから心の準備をしてもらえるからです。