こども嫌いでしたが、こどもに関わる会社始めました。

中国で子供向けエンターテイメントコンテンツを提供する会社をやっています。

悪いのは格差じゃなく、格差を受け入れないこと。

今日本に帰国しています。前回の記事からだいぶ日が空いてしまいましたが、“半外人”の立場から気付いたことをまたボチボチ書いてみようと思います。

 

ここ数年、何かと登場する“格差”と言う言葉、ピケティ大流行で更に頻繁に目にするようになりました。“所得格差”“地域格差”“世代格差”などなど。殆どは“格差は悪いもの”というニュアンスですが、そうでしょうか?そろそろ経済学も社会学も知らないただの素人が口を挟んでも許されるかなと期待して、勝手に語ります。

 

右肩上がりの時は誰でもやればやる程成果が出るので皆頑張れという言葉に説得力があります。しかし情報の細分化が進み今後更に縮小していく社会に於いては、価値観の多様化は当然という気がします。どんな時でも上を目指す人もいれば、仕事は最小限で生活や子育に重点を置きたいと言う人もいる。定住を前提にする生活を求める人もいれば、出来るだけ身軽に自由な生活を求める人もいる。それに加え、移民問題を挙げるまでもなく世界はどんどん狭くなり、宗教や文化や習慣的にも多様化はもっと加速するはずです。日本で言われている“格差”には“多様化”も含まれていながら、それらを区別なく悲観的なニュアンスで捉えられ過ぎているように思います。

 

大前提として日本は資本主義です。乱暴な言い方かも知れませんが、資本主義とは“格差”を前提としたシステムではないでしょうか?格差というと響きが悪いですが、“違うことを前提とした”とも言えるでしょう。今の日本で格差問題と言われている内容は、世界の格差問題と少し違うように思えます。「その違いや差が大きすぎて限度を超えた事による問題」ではなく、「大変な努力を経て“一億総中級”になりそれに合わせて社会を整備したのに、今再び始まった格差に対応出来ていない問題」だと思います。大きな政府と小さな政府という言葉に変えれば、「今まで大きな政府を目指して作って来た社会が、現状に合わなくなって来たのに、政府も市民も小さい政府にする覚悟が出来ていない問題」というところでしょうか。

 

医療や福祉の充実は社会の安定に非常に重要ですが、今日本で提供しているそれらのサービスは全員にとって必要不可欠なものでしょうか?数々の無料検診や助成金、豊富なイベントや講習会、清潔な施設。素晴らしい事だと思います。しかし私は同時にこれだけの内容を無料で提供するコストが気になるのです。自力で生活出来ず政府が生活保護をしなくてはならない人が増えているなら、それは社会の実情と提供しているサービスのバランスが崩れているとも考えられるのではないでしょうか。つまり「そこまでのサービスは要らないから、税金や保険や年金を安くして欲しい。」という人が増えているということです。それならば、生活保護を増やして行くと同時に、政府や自治体が想定している「市民誰もが送ることが出来る生活の理想像」のレベルを下げていくことも必要です。皆が健康で幸せに暮らすことが理想だというのは大前提ですが、「お金が足りる範囲で」というのもまた当然のことです。日本にはレベルの高いサービスやモノについては選択肢が非常に多いので、それ以上を望む人はいろいろな方法があります。一方、少しずつ増えて来たとは言え、最低限のレベルで良いから最低限の金額でという低いレベルのサービスやモノについての選択肢が非常に少ないと感じます。それは公共機関などが提供する無料の「最低限」のサービスのレベルが高過ぎることも無関係ではないのではないでしょうか。

 

無料で受けられる内容以下で有料にする訳に行かないという提供側と無料で受けられるレベルに慣れている消費者が求める有料サービスへの期待の高さ。結果、高級サービスか、ゼロかという二極化になっていると思います。半分の質のサービスを半分の料金で気軽に受けたいという人が想定されていないのです。

 

しかし、無料で受けられるサービスにかかっているコストを考えたことがあるでしょうか?そのサービスの市場価格を考えた事が有る人はどのくらいいるでしょうか?

以前ちきりんさんが書いていたこの記事に賛同します。


すべての税金コストを開示したらどーかな? - Chikirinの日記

日本人はお金のことをおおっぴらにするのを下品と感じる節がありますが、人が動いたり物を作ったりするのにはお金がかかるということは当然のことをもっと理解すべきです。今無料で受けているサービスは、決して関係者全てが無償で行ってくれている訳ではない、どこからかいつの間にかやってくるお金がある訳ではないということ。

 

そして、国も私達も今までの「普通の日本人像」を更新すべき時が来ていると思います。今後どんどん“中級層”は減っていくはずです。“貧乏エピソード”がTV番組のネタになるということは、逆にいうとそういう事はないという前提で皆が暮らしているということ。新品のランドセルを背負い、新品の体操服や帽子や上履きを、数々の手作りの手提げ袋に入れて持ってきて、礼服を来た親とよそ行きの格好で入学式に参加するのが“普通”の小学校一年生とするのは、もう無理が来ていると思うのです。そもそもランドセルじゃなくても教科書が運べればいいのだし、新品のランドセルが買えないこと=貧困ではないはずです。クリスマスや誕生日に新しい流行のおもちゃが買えないこと=貧困でしょうか?

“普通”というされるレベルが高過ぎ、そこに至らないとすぐ貧困とされることに違和感を感じます。普通と貧困の間にはもっと段階があっていいはずです。限られたお金で、本当に必要な人から助けて行くことが目的であるべきで、皆が今まで出来ていた“幻の中級の暮らし”をするのが目的ではないはずです。

「いろんな暮らしをする人がいる」という当たり前の事実をこれから少しずつ受け入れていく必要に迫られていると思います。